山下さん、ハンブルグへバッハ・マタイ受難曲演奏旅行(第5日)
以下は、山下さんが現地でブログ mixi に書いた日記です。
ドイツ演奏紀行 〜バッハ・マタイ受難曲演奏旅行第5日〜
5.ベルギーへ リューネブルクは昔から岩塩の産地で栄えてきたが現在はかつての繁栄は無い。しかエリカ街道の入り口として重要な地理的 位置を占めている。そして我々マタイ受難曲を演奏したグループにとってもかつてバッハが青春の一時期を過ごしている土地 として見逃せない。 結婚もして一家を構えているオールドルフに引き取られた。 ここでバッハはオルガンも学び学校にも通って15歳までになったが、子供も増えていく兄の家にもだんだん居づらくなってきた。 折もおりバッハの通う学校の先生がリューネブルクの聖ミヒャエル教会の付属ラテン語学校に入ることを薦めてくれた。 ことであった。 バッハにとっては有難い勧めで、推薦を受けた友人のエートルマンと2人でリューネブルクへやってきたのである。 このラテン語学校は現在でいえば専門学校にあたるわけであるがラテン語、ギリシャ語をはじめ高度な教育を受けることが できた。 また聖ミヒャエル教会には北ドイツ最大の音楽図書館があり、豊富な楽譜の蔵書もあったのでバッハは音楽の勉強に 力を入れたようだ。 同じ町のヨハネ教会には当時巨匠の一人だったオルガンのベームがアンブルクにはラインケン、リューベックには ブクステフーデという巨匠がいたからバッハのオルガンの腕も相当上がったに違いない。 優雅な日常を見るにつけてバッハも競争心を煽られたかもしれない。 この子弟から紹介を受け、当時フランス音楽が盛んだったツェレの王宮の管弦楽団にバッハはヴァイオリニストとして 潜り込んで演奏し、フランス音楽も吸収できたとも言われている。 こうして約3年近くここで過ごしたバッハは18歳のときにアルンシュタットの新教会のオルガニストとして赴任するまでこの リューネブルクで多感な青春時代を過ごした。 リューネブルクとバッハについてはこのような関係があるが、我々はリューネブルクの岩塩の採掘事業の跡地が博物館 になっているのを見学して岩塩の生産の様子を知ることができた。 リューネブルクからハンブルクに昼過ぎに戻って中華料理屋で食事した後、引き続きハンブルク空港に出かけ、 次のベルギーを目指した。 前後の団員が空港に見送りにきていた。そして我々と一緒に「Mu si den(別れ)」を合唱した。 さらにトランペットを入れて「虹の彼方に」等々の曲を歌ってくれ、別れを惜しんだ。 機はKLM1782便アムテルダム行きフッカー50型の50人乗りで、動き始めてから9分間空港内を移動し、14時58分に 全長5メートルの機体を青空に向けて飛び立った。 59分間でアムステルダムに到着すると乗り換えて、KLM1731便ブリュッセル行き、82人りのフッカー70型に乗り換えた、 機は17時50分に動き出し8分間移動してから17時58分に31メートルの全長を空中に持ち上げて飛び立ち、 オレンジジュースや木の実などを食べながら飛ぶこと20分でアントワープに着陸した。 その夜はホテルの食堂で、ベルギーのビールを楽しみつつ食事し疲れも頂点にきて早く眠ってしまった。
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