山下さん、ハンブルグへバッハ・マタイ受難曲演奏旅行(第2日)


 

         山下さんからメールで送ってきた写真(2回目)です。 

    

ホテルが後ろに聳えるブランテン・ウン・ブローメン
公園
 ヤコブ教会のシュニットガーの大オルガン    昼食のローストビーフと地ビール

        

 

   以下は、山下さんが現地でブログ mixi に書いた日記です。

        

       ドイツ演奏紀行 〜バッハ・マタイ受難曲演奏旅行第2日 

       
 翌3月14日(金)の朝4時頃には目が醒めてしまいそのまま起床、外はまだ真っ暗で、窓から見下ろすとホテルの前の

ダムトーア駅に行き来する人々や、ハンブルク市内の朝の電気の光が一面に目にはいってきた。

  昨日もらったランチボックスから美味しいカツやハンバーグを食べてから6時半の朝食に降りた。このホテルの朝食は

 おいしいとの評判だそうで、さすがに質・量とも豊富である。 

 沢山の料理の中からたとえ一切れづつ取っても食べきれないほどの山盛りになってしまう。 

  私は今日は野菜と果物、それにヨーグルトだけ、それにコーヒ−をお代わりして飲んだ。

 朝食後ホテルの前のダムトーア駅構内の早くから開いている商店街を見学し、街を歩いて内アルスター湖のほとりまで散歩して

 ハンブルクの繁華街を見学した。

 ホテルのすぐ横に大きな公園「プランテン・オン・ブローメン」がある。丘や池を配して散策に適している。日本庭園などを散歩した。

朝10時からホテルの2階の宴会室で練習を行った。メンデルスゾーンのエリアスの音取り、それにマチ受難曲を昼までぎっしりと

練習した。

 昼食は全員で街に出て、アルスター湖畔に近いレストラン「フランシスカナー」で地ビールとローストの牛肉の昼食を摂り、マタイ

受難曲関連の深いバッハの旧跡を訪ねた。

 まず聖ヤコブ教会を訪れた。ここにはシュニットガーの大オルガンがあり、バッハがこのオルガンを演奏するオルガニストに

就職するのを希望したことがあった。バッハがケーテンの宮廷楽士長だった1720年に13年連れ添った妻、マリーアバルバラを

亡くした。そのころ、ハンブルクのヤコブ教会のオルガニストが死亡し、後任にすぐれたオルガニストを募集していることを聞いて

早速応募したのであった。

  バッハはその年の十月にハンブルクにやってきた。そして教会委員会に会い、7人の志願者に混じって試験演奏を行う

 ことになった。そしてバッハ独自のオルガン演奏会を同じハンブルク市内にあるアーダム・ラインケンがオルガンを弾いていた

 聖カタリーナ教会で開き、聴衆をすっかり魅了した。

 彼はラインケンが作曲した「バビロンの流れのほとりにて」を多彩な編曲で自由闊達に即興演奏し、老ラインケンをして

 「死に絶えたと思っていたオルガン技術がまだ引き継がれていた」と感嘆させたという。

                                                     

 勿論バッハのオルガン技術が一番で、バッハに採用通知がきた。ところが採用の条件として当時の習慣だった多額の献金を教会

にしなければならないということだった。もちろんお金の無いバッハは断り、結局オルガニストの地位は富裕な親方の息子、

ヨハン・ハイトマンになった。この間の事情をヨハン・マッテゾンが書いているが、ヤコブ教会の主任牧師エートルマン・ノイマイスター

が「たとえベツレヘムの天使が、だれか一人降り立ち、神々しい音を奏でて聖ヤコブ教会のオルガニストになろうとしても、金がない

ばかりに再び天へ飛び立ってゆくであろう」と説教したという。

 このようないきさつを持った教会であるが、そのシュニットガーの大オルガンが四百年の風雪に耐えて燦然と金色に輝き、今も

演奏会などに使われていう。

  ここから10分ほど行くと聖カタリーナ教会がある。有名なオルガニスト・ラインケンの弾いていた大きな教会であったが

 戦災で焼け落ち完全には修復されていない。13世紀半ばに設立された歴史の古い教会で、ハンブルクにおけるルター派の

 最初の説教が行われたのはこの教会であったし、バッハの教会カンタータの台詞を多く書いた作詞家、フィリップ・ニコライも

 この教会に居た。

 有名なバロック・オルガン奏者のアーダム・ラインケンが居て、彼の音楽を学ぶためにバッハがハンブルクにやってきたのであった。

現在はまだガランとした雰囲気であるが、修復作業の工事中であった。

  ハンブルクはマタイ受難曲でも中心地となってきた。

 古来マタイ受難曲は300曲はあるといわれているが、1642年にハンブルクの作曲家トーマス・ゼレが従来のマタイ受難曲の

形式を大幅に改善して、楽器の伴奏を伴ったマタイ受難曲を始めて作曲した。

 また約30年後の1673年にはハンブルクのヨーハン・タイレがさらに多くの楽器を使用した、バッハのマタイ受難曲に近い形式

で作っている。またバッハと同じ時代に活躍し、ハンブルクの町の音楽監督だったテレマンもバッハ同じ時期にマタイ受難曲を作って

いるのである。こうした積み上げの中でバッハは集大成した形で普及のマタイ受難曲を作曲したのである。

 午後4時にホテルをバスで出発して40分くらいのところにある、レリンガー教会へ移動した。ここで日曜日本番の指揮をとる

ヴォルフガング・ツィルヒャー氏により練習があり、たっぷり2時間、マタイ受難曲の練習をした。

  夕食はハンブルクにある日本食のレストラン、「まつみ」のおにぎり弁当で、美味しく食べ、引き続き19時からレエリンガー

 教会のカントライ(合唱団)も加わって、約2時間へとへとになるまで練習を行い、ホテルに帰着した。

 

       

     

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